宮崎知子事件
1980(昭和55)年2月23日
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1980(昭和55)年3月6日朝、岐阜・吉城郡古川町戸市の数河峠近くの山林で女性の絞殺体が見つかり、2月23日夜から行方不明となっていた富山・婦負郡八尾町の、八尾高校家政科3年の長岡陽子さん(18)と判明した。

長岡さんは2月23日、父の車で今春入学予定の金沢市の調理専門学校を、女友達と一緒に訪ね、父はそのまま車で帰った。長岡さんは女友達と19:00に富山駅で別れ、それっきりになっていた。2月24日、25日に富山市内の贈答品卸業者の事務所にアルバイトに誘われ泊まった、と長岡さんは自宅に電話を入れていたが、2月27日朝には富山市太郎丸の喫茶店に来るように見知らぬ女から長岡さんの自宅に電話が入っていた。

3月5日17:20、長野市北石堂の長野信用金庫石堂支店で友人と2人で職員の寺沢由美子さん(20)が退社、隣の喫茶店でコーヒーを飲み、18:30に200メートル離れた千石前バス停にいるのを目撃されたのを最後に行方不明となった。3月6日夕方に、見知らぬ女の声で、寺沢さんの父(54)の会社に、18:30までに寺沢さんの父に帰宅するようにと電話が入り、自宅に「寺沢さんを誘拐したので、明日の10:00までに姉に3000万円を持たせて長野駅の新しい待合室に出向くように」と指示する電話が入った。
 
3月7日10:00、寺沢さんの姉は10万円を用意、長野駅の構内放送で電話口に呼び出されたが、10万円しか持ってきていないと知ると、犯人は「はした金では応じられぬ」と電話を切った。その後、4回目の交渉で2000万円で決着、寺沢さんの姉は犯人の指示通りに2000万円を持って長野発、16:38の上野行き、「あさま16号」の6号車グリーン車前方に乗り込んだ。切符は上野まで買わされたが、高崎駅で18:40に下車、待合室に案内所に電話がかかっているとの呼び出しがあり、寺沢さんの姉が出向くと、喫茶店「ポンテ」に行くように犯人に言われた。しかし1時間30分後、寺沢さんの姉を取り巻いていた捜査員の存在に気づかれ、真向かいのレストラン「ナポリ」へ移動するように犯人は要求、22:00には「明日の正午にまた来い」と犯人から電話が入り、切れた。その後、犯人からの連絡は途絶えたが、3月27日発売の『週刊新潮』がこの事件を報道する事となり、この日、公開捜査となった。


警察は富山・長野両県にまたがる連続誘拐・殺人事件として「広域重要111号」に指定し大掛かりな捜査を展開。
やがて、誘拐された付近の目撃者の証言で「フェアレディに乗った大きなサングラス(トンボメガネ)の綺麗な女性」がクローズアップされた。
捜査本部が近県の「フェアレディZ」を所有している女性を調査した結果、富山・富山市で贈答品販売店を営む宮崎知子(34)と共同出資者の北野宏(28)を犯人と断定し3月30日21:00に逮捕した。


宮崎、北野が経営する贈答品販売業の業績は芳しくなく設立した翌年には業績不振でサラ金に頼った。借金は膨れ上がり窮地に陥った宮崎は営利誘拐を計画し2人の女性を言葉巧みに誘い犯行に及んだ。

「フェアレディ」を乗り回す美人女性と年下の男が仕組んだ誘拐・殺人事件として報道もエスカレートしていった。当時の警察やマスコミは主犯を北野、宮崎が従犯という構図を描いた。取調べでも警察は北野に対して「男のけじめをつけて全て白状しろ」と強要。女に(宮崎)に全ての責任をなすりつけるのは男らしくないと詰め寄った。が、北野は「犯行に関しては一切感知していなかった。宮崎に言われて運転しただけ」と供述を繰り返した。一方、宮崎は真犯人は別人として容疑を一切否認した。

検察は北野が主犯、宮崎が従犯として起訴した。ところが1985(昭和60)年3月の公判で宮崎主犯、北野従犯とする冒頭陳述を行う。検察の求刑は宮崎に死刑、北野に無期懲役とした。が、富山地裁は「宮崎の単独犯行」と認定し宮崎に死刑、北野に無罪を言い渡した。続く名古屋高裁でも同様の判決で北野は無罪が確定。1998(平成10)年9月4日、最高裁は宮埼の上告を棄却して宮崎に死刑が確定した。

宮崎は真犯人は別に居るとして再審手続きを行っている。


 
 


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